編著者の英語の遍歴

編著者名 宮岸羽合(みやぎしはごう)

★中学時代 
 中学2年生の頃、勉強していなかったので、教科書の英文の意味がわからなくなる。英語の自信喪失。中学3年生になって、塾や家庭教師のおかげで、にわか仕込みの練習で、なんとか英語受験レベルに到達。

★高校時代
 奇跡的に受験校である桐蔭学園に合格。英語が外部生でトップクラスに入ったのが間違いのはじまり。プリントを忘れて教室で立たされ、必死に勉強しようとしてもわからず、教室にいる7人の帰国子女の発音のすごさに、ここは自分のいるべきところでないと感じる。能力別クラス編成のため、毎学期ごとにクラスが下に落ち、先生方からは新記録だと言われた。ついに野球部の生徒たちと机を並べて勉強するようになった。
 高2になって、英語を勉強するよりまず自分の国のことばである日本語であると思い、古文の世界にのめり込む。英語がますますいやになり、英文科を出てもしゃべれないような英語を日本で勉強してどうなるなどと、英語教育に懐疑的になる。できない、できないからやらない、やらないから懐疑的になるという悪循環にはまる。

★英語に目覚める
 そんな私が英語に開眼したのは、高3の夏である。大学受験を目指していたので、英語を勉強せざるをえない状況であった。そこで見つけたのが、朝3時間、午後3時間、夜3時間の授業でスパルタ方式の英語講習であった。藁をもつかむ思いで、今はなき松本亨高等英語専門学校の門をたたいたのであった。と言っても一日9時間では予習ができないので、午前と午後の6時間、5週間の英語の勉強をすることにした。
 まず驚いたのが、テキストを取りに行ったときのことだった。たかだかテキストをもらいにいくだけと思ったら間違いであった。日本人の相手が私に英語で話しかけてくる。これがまず衝撃だった。留学もしていない日本人が英語でペラペラと話している。こうなれるのだと思った瞬間だった。
 夏休みの講習がはじまると、授業はほとんど英語で、さっぱりわからなかった。アドバイザー(担任に相当する)に、英語ができないけれど、やる気はありますと言って、助けを求めた。その先生は、自分の好きな英語の本をはじめから暗誦しなさいと言ってくれた。
 そこで、暗誦などしたことがない私が、はじめは2〜3の文を覚えるのにも2時間ぐらいかかったけれど毎日その先生のところへ行った。あとで聞いた話だが、その先生は昼ご飯が食べられないぐらいだったとか。そうして、授業の英語も少しずつわかってきた。するとどうだろう。英語が面白くなってきた。
 夏休みが終わると、高校では、英英辞典を手に英語の授業にのぞむようになっていた。秋から、松本亨英語高等英語専門学校のナイトスクール(1年)に入学、高校卒業後はデイスクールに入学し、大学へはいかないことにした。高校の担任の先生は、それは逃げだと言うので、大学を受験はするが受かってもいかないと啖呵を切ってしまい、受験をして1校受かったけれど、英語学校へ行くこととなった。

★英語学校時代
 英語学校の中は英語だけしか使えない。上智大学外国語学部と英語学校を受験し、両方受かったからこっちへ来た人。早稲田大学を中退して来た人。こんな学歴社会をさかなでにするような強者がいた。学校の方針に信頼し、情熱的に英語を勉強した。
 とくに、仲間と一緒に、よく英語でディスカッションをし、ときには喫茶店で日本語でディスカッションをした。松本亨先生の「英語で考える」を実践し、考え事も、生活も、ほとんどを英語でするようになっていった。

★大学時代
 私は、国文学ではなく、英文学を勉強し、英語の教師になることにした。そのためには大学受験をして教員免許状を取得することが必要となった。そこで、大学を受け、松本先生がかつて教えていた明治学院大学へ入学。松本先生の弟子たちがE.S.S.の活動に不満を持って作ったE.S.A.(English Study Association)に入った。そこで、スピーチ、ディスカッション、ディベート、ドラマ活動を通し、英語を磨くことができた。
 また、大学の授業も熱心だった。英語の時間は英語でをモットーに、大学の先生が日本語で授業をしていても、こっちは英語で答え、ときに大学の先生と英語で闘った。多くの教授たちは私の挑戦を受けてたってくださった。答案もレポートも英語の授業はすべて英語で書いた。1人の尊敬する先生の授業以外はそうした。そして、その尊敬する先生だけは、日本語を使って接した。イギリス文学を私に教えて下さった赤川裕先生がその人。私は赤川先生のゼミをとることにした。卒論はもちろん英語で48ページ。原書をたくさん読んで論文にまとめた。こうして、大学時代、キャンパスの中で英語で戦ったのであった。

★私立学校へ就職
 一方、英語の学校へ行く頃、私の心に悩みがつのっていた。そんな頃から教会へ通うようになり、自分の罪を悔い改めて洗礼を受けた。そして、クリスチャンとなったことで、キリスト教主義の学校への就職を希望し、導かれて私立学校で働くようになったのである。
 就職してからもよく勉強をした。CBS Evening Newsが日本で放映されるようになり、ニュースキャスターDan Ratherの英語を特に熱心に聞いたのはこの頃である。ある夏休みは、5,000ページ読破をめざし、目標まではいかなかったが、アーチャーの「カインとアベル」、ドストエフスキーの「罪と罰」の英訳版、ヘミングウェイの「老人と海」などの名作を4,000ページ以上読んだりもした。

★アメリカ留学
 5年学校に勤めて、1年間アメリカで教育学を学ぶことになった。アメリカの南部ケンタッキー州の田舎の大学。アズベリー大学は、プラクティカムというプログラムで、地元の学校へ、学校の先生のお手伝いをすることで、単位が習得できるシステムを、アメリカで最初に開発した大学である。のちに、シカゴ大学でこの方式が取り入れられ、全米に伝わった教育学部のプログラム。その元祖の大学のプラクティカムを通して、私はアメリカの小学校や中高の現場に400時間通って見学をしたり、授業をしたりしたのだった。
 大学へ通いながら、地元の学校の教師とも親しくなり、さまざまな家庭へ行き、教育を語りあったり、子どもたちの教育の様子を見たりしてきた。アメリカの教育を、学校の中と家庭の両面から見ることが、私の目的であった。留学中は英語の生活を満喫し、多くの人と出会い、さまざまなアクティビティーに参加した。また、アメリカ国内の行きたいところを3度旅行した。ワシントンD.C.やニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴなどのメジャーな都市。ナイアガラの滝やグランドキャニオンなどの観光地。そして、アメリカで一番貧しいとされている地域(サウスダコタ州のパインリッジ)や「大草原の小さな家」の著者ローラ・インガルス・ワイルダーのゆかりの地を巡る1500キロの旅などもした。1年の猶予しかなかったので、2年分勉強し、見てくるつもりでアメリカ留学をしたのである。

★Toastmasters
 日本へ帰国してからしばらくして、Toastmastersクラブに入り、コミュニケーションを学ぶことは今も続けている。英語でスピーチをする場数をたくさん踏める場である。

★通訳の衝撃
 あるとき、通訳者の教員向けセミナーに参加し、通訳の勉強法に衝撃を受け、その通訳者と連絡をとって、私が通訳を勉強するのに適した場所を紹介してもらった。それは、同時通訳者のパイオニア、故斎藤美津子先生の土曜学校であった。一流の先生方が初心者も教えてくれるという、何とも贅沢な通訳教室である。私は、かなりしんどかったが、3年間通い続け、プロコースも、土曜日以外の水曜日の特訓にも参加し、そこで、今までの英語学習の生ぬるさを味わったのであった。
 ここでの勉強を通して、それまでも気づいていたコロケーションで学ぶことの大切さを思い知らされたのである。英単語レボリューションは、この通訳の学びを通して得た方法を随所に駆使してできた単語集であると言える。

★コレクション
 私は英語学習をしてくるなかで、英語のカセットテープ、ビデオテープ、今はインターネット上の英語の音声を多数集めてきた。家には生の英語の教材があふれるほどある。カセットにしても500本はある。ビデオ、DVDも500本はある。Radio Mystery Theaterというラジオ番組も、1978年頃から集めており、800番組ぐらいは持っており、iPodで聞いている。本もたくさん英語で読もうと努力している。こうしたコレクションも、英語教材作りにとても役立っている。